踏みなれたはずの足元の地面を掴まれて、ずるりと身体諸とも地中の奥の奥の闇の中へ引きずり込まれた気がした。
世界が非日常という名前に色を変えていく。
噎せ返るような鉄錆の臭いが、
土に汚れた埃の臭いが、
啜り泣く声が、
誰かが誰かの名前を呼ぶ声が、
痛みに呻く弱々しげな声が、
非日常に形を変えた世界に満ちている。
消毒液の匂いが漂う衛生管理のなされた白い城の秩序は、非日常によってその形が崩れていく。
ばらばらと崩壊する秩序を踏みしだいて、思考を乱す非日常が作り出した闇を男は頭から振り払う。
額に垂れる白髪の下、レンズの向こう側の赤い目が真っ直ぐに世界を見据えた。
西京大学医学部附属病院。その白い待合室は赤に汚れた人間で埋まっている。
彼は思考する。
全てを救う、最良の解を。
先生、と呼ばれる声に振り向き、男はすぐに部屋奥にと駆けていく。
秩序を持たない喧騒に僅かに、機械から流れ出る非人間的な色を持った女性の声が雑音と共に混じっていた。


――京駅……脱線事故……今だ電車……瓦礫の……。
――重軽傷者多数……負傷者……西京大……院へ……搬送……。


此処は今から、
容赦無く命を狩り取ろうとする死神との戦場だ。






入口に近く、広いスペースが確保できる病院の待ち合い室が開放され、
そこに電車事故に巻き込まれ怪我をした患者達が運び込まれていく。
比較的軽傷者はその場で看護師達の手当てを受け、重傷を追った人間は奥へと運ばれ医師達による懸命な処置を施されている。
床に蹲る人々の合間をばたばたと看護師が駆け回り、
負傷者の様子を見ながら手元の紙から色鮮やかな色紙をもぎ取ると患者の右手首に着けていく。
もぎ取られる色紙は上から黒、赤、黄、緑。
幸いにも擦り傷だけの少女の手首に巻き付けられた紙からは色紙はもぎ取られていない、黒赤黄緑。
不幸にも両足を瓦礫に巻き込まれ、骨の砕けた青年の紙からは緑がもぎ取られ黒赤黄。
痛い痛いと呻く青年を男性の看護師がついて励ましながら怪我の様子を見ている。
酷い怪我ではあるが、すぐに死に繋がることはなそさうだ。

――誰かを手を!!早く奥へ!!

様々な音がざわめく待ち合い室で一人の女性看護師の声が一際響いた。医療関係者の纏う白の衣服赤が飛んでいる。
彼女の側にはぐったりとした女性の姿があり、何度看護師が名前を呼んでも反応を返さない。
全身を酷く瓦礫で打ち付けたらしい彼女はひどく噎せたかと思うと口から赤黒い血液をぶちまけたのだった。
乱雑にむ
しり取られた紙の残りは、
黒と赤。数人が駆けつけ、息を合わせて彼女の身体を人数に二を掛けた腕の数で支えてストレッチャーへと乗せる。
大丈夫ですか、と意識のない女性に看護師の一人が頻りに声をかけ続け、
ストレッチャーはがらがらと車輪の回る音を響かせながら人々の間を割き進み、
奥の治療室へと消えていった。





そう狭くない筈の治療室は、詰める医師たちと運び込まれた患者達、
また走り回る足音と器具がぶつかる高い或いは鈍い音、
指示を出す声仰ぐ声、機器の発する機械音そんなものに押し潰されて、部屋はひどい圧迫感を醸し出していた。
薬品と血液の匂いが色濃く部屋をたゆたっている。
呼吸器をつけられた男性の負傷者につく一人の医師が、
額から垂れ落ちる汗をぐいと服の裾で乱暴に拭った。
白髪の下の赤い目、眼鏡の奥に真剣な光を宿したその目が再び患者を見据え、
そしてその唇から紡がれる凛とした声が喧騒を裂いて響く。

「のあサン!Oのrh-型血液の輸血準備お願いシマス!!」
「了解であります!!」

特徴的な口調で出される医師の指示に、のあと呼ばれたはきはきした女性看護師の声が直ぐ様応え、すぐに駆けていく。
緑と赤が境界線曖昧に混ざった長い髪も、裾の短い桃のナース服もばたばたとはためいて、人々の間を縫い進む。
次に、また顔を上げた医師がまた口を開き、大声で指示を出す。血と汗で薄汚れた顔を彼は気にもとめていない。
彼の双眸が見据えるのは人の命の灯火の行方のみである。
その火を死神に浚わせる気など、彼には一欠片も持ち合わせていない。

「美優希サン!!この患者サン持ち直しまシタ!残りの輸血と処置をお願いシマス!」
「分かりました、解良先生!」

直ぐに彼のもとへ美優希と呼ばれた青みがかった黒髪の看護師が駆けてくると指示通りに動き出す。
そこへ輸血用血液パックと器具を抱いたのあが戻ってくるのを見て男は動き始めた。
動き出すのと同時に側にあった麻酔薬のプラスチックケースを束ねていた輪ゴムを掴むと、
ふわふわとしたその白髪を何の躊躇いもなくそれを用いて束ねた。
首もとにまとわりつく髪が少しばかり大人しくなる。
アルビノの白髪と赤目が人目を引く彼の名は、緋門解良。
西京大学病院の外科医であり、
戦場と変わらぬ様相となった此処で医師と看護師を率いる将軍となったのも彼である。
赤い視線がざっと室内を駆け巡る。
今のところは医師、看護師の持つ一人辺りの患者の数は何とか立ち回れる数に落ち着いているようだ。
――『今のところは』だが。
治療室を一度出て、待合室を見渡す。
動き回る看護師。医師たち。
『応援』の姿は――まだない。
まだこの患者達の数は第一陣に過ぎないと解良は良くわかっていた。
列車脱線の事故現場に赴き救助に当たっている特高警察隊
――そして解良の友人であり警視総監の鮫島愁太郎――からの連絡によれば救助作業は難航しており、
搬送される負傷者はまだまだ増えるという。
解良の手がぎゅっと結わえた髪を掴みさらに縛り上げる。
全く髪を結びあげることなど想定していない輪ゴムなどで縛った髪が、頭皮が、悲鳴をあげるも、
解良はその痛みすら感じていないようだ。
白衣のポケットから懐中時計の形をした携帯型電話――懐中電話と呼ばれている――に耳を当てようとしたとき、
解良のそれが冷たい電話に触れる直前、
解良先生と名を呼ぶ男の声を彼は聞き取った。
顔を向ければ、長身の白髪の青年がこちらに駆けてくる。
戒センセと解良の口からその青年の名が零れた。
解良からも動き、すぐに青年と、西京大学病院非常勤医師である兎村戒と、解良が並ぶ。
戒は負傷者で埋まった待合室を見渡すと、驚愕の色が混ざるこわばった表情を解良に向けた。

「連絡を貰って直ぐに緋来に走ってもらいました、酷い事故だとは聞いていましたけど……本当にこれは……」

ええ、と解良が頷き、
そして身長差があるがゆえに下から、真っ直ぐに戒の目を見つめて口を開く。

「戒センセは治療室で小生達と重傷患者の治療を担当してもらいマス!お願いできますカ!」
「勿論、全力でやらせてもらいますよ」

貴方に人参を食べさせるときみたいにね。
冗談を飛ばす戒に解良が笑い。
あの怖いほどの執念を期待していますヨ。
がつんと、二人の上げた拳がぶつかった。



解良が戒と治療室に飛び込むなり、姿を見つけたらしい美優希の解良先生と叫ぶ声が叩き付けられた。
直ぐ様駆け付け、意識のない女性患者を囲む看護師達に状態はと尋ねると、少々早口になった美優希の声がそれに答えていく。
「自己申告によると瓦礫で全身を打ったそうです、その後吐血、意識不明!脈拍129、血圧上78下40!」
服が裂かれ、露になった腹部に解良の手が軽く触れ、その唇が呟く。
「……血が溜まっていますネ……。破裂してるかもしれマセン、まずは吸引シマス!!切開しますヨ!」
看護師が直ぐ様解良の声に呼応して、素早く指示通りの行動を出す。血液を吸い出すための吸引機と輸血用血液と器具が用意されると、解良は右手に手渡された銀のメスを女性の腹にと押し込んだ。瞬間。

「ッ!」

噴き出した血液の赤がびしゃりと解良の身体の全面を染め上げた。
白の白衣に、肌に、髪に飛び散る赤は、さしずめ彼の髪の一部分を染め上げる赤い色素が増殖したようだった。
眼鏡のレンズにすら飛び散った赤に視界を奪われながら、解良は乱雑にそれを手で拭って世界を赤から取り戻す。看護師が噴出する血液の勢いを宥め、吸引に輸血にと動く。マズイですネエ。その呟きは直ぐに喉奥にと押し込んだ。すぐに別の言葉を作り出し声に変換する。

「……直ぐにオペ室に運んでクダサイ、執刀医ハ小生が担当シマス!」
「りょ、了解であります!では助手は……!」
「イイエ、このオペは、」

小生一人デ、担当シマス。

一瞬看護師たちの手が止まり、そして再び処置にと動き出しながら怒鳴るようにその言葉の真偽を問おうとしたのを同じく処置にと慌ただしく動いていた戒の言葉が静かに遮った。
静かな、静かな声だった。

解良先生、本気なのか。

戒の鋭い双眸が、解良の赤を真っ直ぐに睨み付ける。
嘘を許さぬ剣のごとく鋭いその視線に射抜かれても解良は怯まないどころか、
血液の赤にまみれたまま不敵に笑い、
ええ、
とだけ、彼に答えた。
戒が、そうですか、と静かに応える。
指示を出す声が響いた。




オペ室の準備が出来たと看護師の一人が叫ぶ。
赤にまみれた白衣を脱ぎ捨て、緑の手術着を纏った解良が声の方へと駆けていく。
まだまだ此処に搬送されてくるであろう、傷付き、助けを求める負傷者達。
一人でも多くの医師の手を、看護師の手を、彼等に届けるために、一人きりで死神と対峙する道を選んだ天才の目には、少しの迷いすらなかった。
死神は彼の前で嘲笑うかもしれない。
どうせ人の終着駅は死でしかないと。
それでも彼は人を救うという。

――彼自身が生きるために。





最悪の事故として伝えられた西京駅列車脱線事故は、
死者を一人も出さなかった奇跡の事故として、後に伝えられることになる。
 
2013.06.01

誓え、その心の臓に

To Swear By The Heart.

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